南朝本拠の吉野陥落…しかし「観応の擾乱」で京都を支配下に
戦う天皇の秘史「承久の乱」と「南北朝の戦い」での 2人の天皇の勇壮無比の活躍は真実か? 第6回
吉野陥落と幕府内訌による、正中一統の成立
かくして即位9年目の正平3年(1348)正月後村上は大きな試練に遭遇した。将軍執事高師直の率いる幕府の大軍が河内を経由して吉野を攻め寄せ、吉野を陥落させたのである。この一連の戦いで後村上は南朝の驍将楠木正行を失い(四条畷の戦い)、吉野朝廷の殿舎仏閣は灰燼に帰した。後村上ら南朝首脳は吉野陥落の一足さきに脱出して難を遁れ、さらに吉野の奥地の賀名生に退却することとなった。こうして後村上の度々におよぶ南朝本拠(行宮)の移転の第一回目が行われたのである。
正平4年(1349)ころから顕在化した幕府の内訌(観応の擾乱)は、南朝に漁夫の利を与えることになった。この内訌で敵対関係にあった将軍足利尊氏と弟直義は互いに軍事的な便宜から南朝に降伏する形をとったため、京都は一時的に南朝の支配下に置かれた。正平6年(1351)一一月から翌年閏2月までの僅か5カ月間のことではあるが、この間北朝は廃止され、年号は正平に一本化されたため、このできごとを「正平の一統」と称している。後村上は京都を支配するにあたって勅使を派遣して後醍醐天皇のむかしに回帰する性格の政策を強烈に打ち出している。
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